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「十二人の死にたい子どもたち」は青春映画だ。

地元の映画館で、刀剣乱舞もPSYCHO-PASSもやってないから(何ならやってるんだ? マーベル作品とディズニーとプリキュア&仮面ライダーだよ!!!!)「十二人の死にたい子どもたち」観てきました!!

これは普段ミステリーとか邦画を倦厭してる人にこそ見てほしい……。私は原作未読なんですけど、めちゃくちゃ良かったので、感想書いていきます。

 

*彼らはひとえに死にたいのだ。

あらすじ。

廃病院に集まったのは、十二人の子どもたち。彼らがここに集まった理由は「全員で安楽死をするため」。互いの顔も身の上も知らず、ただ「死にたい」という気持ちを同じくして集まった子どもたち。しかしその会場には既に、一人分の死体があった。

この集いの主催が場に問う。「この方は、どなたですか?」

誰かがこの集いの時間と場所を漏らしたのか? もし警察が集団自殺した自分たちを見つけたとき、ヘマして妙な結論付け(自分たちは加害者である、もしくは室内の人間は全員自殺ではなく他殺されたなどと公表される)をしたら?

自分たちはこのまま、集団自殺を決行していいのか?

集いの主催が決を採る。「今すぐ決行することに、反対の人はいませんか?」

 

 

原作は、冲方丁のミステリー小説。

基本は、謎の十三人目(正確には、子どもたちより先に室内にあったので、ゼロ人目)はどうしてここにいるのか? この死体をここに運び込んだのは何者か? というところの追及になっていきます。

何がいいって、子どもたちの行動理由が単純明快なんですよね。「死にたい」これだけ。

なので、「俺はこんなところにいるなんて御免だぜ!部屋に帰らせてもらう!」みたいな単独行動をする人もいないし、妙な言動が飛び出して視聴者がいらつくこともない。

とにかく死にたい。安心して、みんなでここで安楽死して、つつがなくすべてを終わらせたい。そういう動機で行動するし、その思いに基づいて発言します。

ただ、みんなそれぞれが「死にたい」と考える理由があるので、「この状況のまま自殺するのは困る」とか「一刻も早く無事に自殺してしまいたい」とか思惑が交錯するわけです。

この互いの事情や感情が折り重なって、重要な出来事を隠していたり、何かを暴き立てようとしたりする。この構造が非常に丁寧で繊細で、ミステリーとして犯人捜しをするのが楽しい一作です。

また、集まった理由が「死にたい」なので、みんなの身の上も気になるところです。言動の端々に、彼らが嫌がる行為や思想、得意な思考や好きなことなども滲んでいて、ひとりずつつまびらかになっていきます。それらも、子どもたちの会話や議論に絡んできて、お見事な構成。

ひとつ言えることは、彼らはひとりでは死ぬ勇気がないから、「集団で安楽死する」ことを選択したのだということ。

どこか他者に依っている部分や、自分に甘い顔をしている部分があるからこその発言や行動もあり、病院内の謎に一役買っています。

物的証拠や事実だけではなく、子どもたちの言動・思想にも手がかりを見出していけ! 深読みオタクにはかなり興味深い作品。

 

 

 

 

 

以下、ネタバレ有りの感想。

 

 

 

 

 

 

*お涙頂戴の何が悪い。彼らはひとえに生きたいのだ。

これを読んでいる人も、人生で一度くらい「死にたい」と思ったことがあるんじゃないでしょうか。

親や家庭環境に恵まれなかった。学校で友人関係が上手くいかなかった。病気や怪我で肉体的に苦しい思いをした。自分が原因で不幸なことが起きた。努力したことが報われなかったり、否定されたりした。何のために生きているのかわからない。

特に成人するまでにこういう苦境を感じた人には、逃げ場がないことが多いように感じます。

これは私の持論だけど、子どもは家庭と学校の狭い世界で生きていることが多くて、どちらか片方に問題があると、途端に世界が断絶されてしまいがち。

他人や、大人になってから考えてみれば、「逃げればよかったのに」「助けを求めればよかったのに」「そんなに気にすることないのに」と思うようなことでも、世界の5割を占める場所が災厄に支配されている当事者にしてみれば、それはとてもとても恐ろしいことのように見えるものだと思う。

十二人の死にたい子どもたちは、既に押しつぶされた子たちです。

病気で余命いくばくもない子、壮絶ないじめから逃げ出せない子、親に見捨てられた子、償えない罪に悩まされる子。世界の5割以上のサイズに膨らんだ絶望に、彼らは押しつぶされている。言い様の無いそれに完全にぐしゃりと潰されて無残に殺される前に、自らの意志で死んでおきたいのだ。

しかし彼らは、廃病院で違う世界を知るんですよね。

自分と違う病気に悩まされている子、自分とは違うアイデンティティを持っている子、自分から見れば「逃げるの簡単じゃん」という呪いに捉われてる子。

そして彼らは、寄り添うことを考えたりもする。代わりにいじめっ子どもを殴り飛ばしてやれるかもしれない、彼の親には自分の親から話がつけられるかもしれない、クラスの人気者になれるようアドバイスしてあげられるかもしれない、互いの視点からの意見交換ができるかもしれない。なんて。

彼らは「死にたい」から集まったけれど、「死にたい」にたどり着くまでに彼らは、「生きたい」ともがいたはず。「生きたい」ともがいて、試行錯誤して、努力して、それでも上手くいかなくて押しつぶされたから、「死にたい」と思うようになったのだ。

死をテーマにして、残り僅かな生を描くタイプの作品には「お涙頂戴」なんてからかい交じりの批評がされるけど、お涙頂戴の何が悪いんだ。十二人の死にたい子どもたちは、ただひたすらに、生きたいのだ。

終盤、生死について激論を交わす登場人物が、「話はそれで終わり?」と問われたときの返答がぐっとくる。

「終わりじゃない。まだまだ話足りない。僕の話ももっとしたいし、君たちの話だって、もっと聞きたい。そう思うようになってしまったんだ」

新しい世界を知ったところなんですよ。新しい趣味を見つけたり、好きな習い事や部活を始めたり、ハマれるものに出会ったとき、「もっと!」って思うのって普通のことですよね。彼らは、互いが互いのそういう存在になれたんだ。

この新しい世界を、もっともっと知りたいと思うことの、何と美しいことか。

子どもたちが、それぞれの事情を抱えながら、ぶつかったり意見したり尊重したりしながら成長していくんですよ。これが、青春映画じゃなくて何だと言うのか!

願わくば、廃病院から出て、それぞれがそれぞれの旅を再開させた後も、連絡を取り合って、奇妙な一晩の仲間として大事にし合えていればいい。

 

だってこんなに美しい曲が、主題歌なんですよ。

「十二人の死にたい子どもたち」は、青春映画だ。

 

ついでに、サトシくんとアンリちゃんについて、成長が無かったのでは?(新しい世界を知れなかったのでは? 相変わらず世界の過半数を占める災厄に押しつぶされているのでは?) と考える人もいるかもしれないけど、私は彼らこそ成長したように感じました。

偽装工作をして、遺書まで書いて、リコちゃんに感謝しても、センセーショナルに世界に訴状を叩きつけようとしていたアンリちゃんが、サトシくんとシーソーゲームをしようと持ち掛けるんですよ。どっちが勝っても恨みっこなし、毎度互いの希望が果たされるといいね、なんて不確実なゲームをしようって。

サトシくんも、自身を傍観者のように設定して、ただ参加者の意向を汲みますなんて嘯いて毎度毎度「また今回も」となって辟易しないのは、やっぱりどこかで「みんなどうせ生きたいんだろうな」と思ってる節があるんじゃないかな。そこへ、毎度全力で実行しようとするアンリちゃんが入ってくるのは、きっとサトシくんにとっては、緊張感と張り合いが生まれるはず。

でもそもそも、「死にたがり」と「傍観者」がゲームをするのは、両者とも生き甲斐を得ることに他ならないと思うので、エンディングでの彼ら二人こそ「生きたい」方向に向かっているように感じました。

 

ミステリーより少年漫画的成長大好きな私が感想書くと、ミステリー部分がおまけみたいになりますね。普通にミステリーものとしても面白かったよ!

推しはセイゴくんですね。

原作も是非読みたい。

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